母を思う(5)
母の入院から4日、Drに今後の見込みについて聞くと、「施設に戻るのは難しいだろう。次の病院を……。」と。そうなると後3週間で、転院しなければならない。すぐどの病院がいいのか探さねば…。すると、2日後、Drから呼び出される。母の容態が急変し、「心不全に下血がある。いつ何があっても不思議ではない。」と言う。そんなこと、まだまだ先の先と考えていた私は驚いたが、不思議に慌てることはなかった。そして、残された時間をどう過ごさせようかと考えた。母の親戚、兄妹、縁の深い知人に連絡すると会いに来てくれた。この間1週間、ほとんどうつらうつら状態だった母が、そのときだけは不思議に意識が戻った。思えばこれが最後になった。
夜まで仕事だった翌日、今日は面会にと思っていた朝、病院から「すぐ来て!」と連絡が入る。駆けつけるが、私の着く10分前に事切れていた。手も頬もまだ暖かく、穏やかな表情に私の心も妙に穏やかだった。ただ最後の瞬間に立ち会えず、見送れなかったことに一抹の申し訳なさは感じたが、温かさの残った母の手を握りしめじっとしていた。そして、自然と涙だけが静かに流れた。母とは、その生き方をめぐって葛藤もあったが、93歳まで生きてくれたことそれ自体で、私を支える大地、風雨から守る屋根となってくれたという感謝の思いが湧いてくる。入院から2週間で死亡退院する母をDrと看護師が見送ってくれたが、感傷的な雰囲気に浸ることはなかった。
通夜、告別式とあわただしく済ませた。葬儀は親類、縁者、母の親しい友人のみの「家族葬」で、香典も辞退させていただき、簡素ながら落ち着いた雰囲気だった。式の中で、母に8ヵ月まで風呂に入れてもらった曾孫が別れの言葉を送った。この言葉が終わると、棺の横に置かれた母愛用のバックが「分かったよ。ありがとう。」というようにことりと倒れた。絶妙のタイミングだった。火葬場では、母の面影とついに分かれる惜別の感を抱きながら静かな一時を過ごした。収骨では、元気に最後まで歩いていた骨盤、大腿骨は93歳とは思えないほどしっかりしていた。
葬儀の後処理を簡単に済ませると、翌日からいつもと変わらぬ生活へ戻った。普段の生活リズムで毎日が過ぎていくが、喪失感や虚無感を感じて落ち込むことはない。ある人は、「1,2か月先に寂しさを感じるかも。」と。今思い出されるのは、保育園から小学校低学年のころの楽しかった母との触れ合いだけである。教育分析でこのことを話すと、「(私の母と)向き合うべき課題はすべて整理されている。もし、出てくるとしたら、まだ未整理の部分だろう。」と。さて、これから先、私にどんな感情が湧いてくるのだろうか。
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